2010年11月18日木曜日

すみれの花咲く頃


Satow
Nov, 17. 2010

「しかしどの民族も、いな、どの人間も、成熟しようと欲するものはすべてそのような覆い包む妄想を、そのような庇護し面紗で包む雲を必要とする。しかし現今では人々は一般に成熟を憎んでいる、なぜなら歴史を生以上に尊ぶからである」。
フリードリッヒ・ニーチェ『反時代的考察』

 そこは夢の世界です。憧れと共感に満ち溢れています。綺麗に着飾った女役やダンディな着こなしの男役が華やかなオペレッタやレビューを繰り広げています。その仲でスポット・ライトぉ浴びているのは、長身で、肩幅が広く、目鼻立ちの整ったトップ・スターです。

 それを見つめるのはほとんどが女性です。小学校に入りたての少女から米寿を超えた婦人までいます。一見さんも、常連さんも。親子代、三代、四代に亘るファンもいるのです。彼女たちにとってこの世界への忠誠心は幸福感の証です。すっきりとした汗の臭いと共に、むせるようなメークやかぐわしい香水の香りがステージから漂ってきます。だらしなさや不潔さ、醜さはそこにはありません。

 それが宝塚です。

 1914年に宝塚唱歌隊として第1回公演を宝塚パラダイス劇場で行って以来続いている宝塚は由緒正しい日本のサブカルチャーです。宝塚は少女マンガの誕生に大きな影響を及ぼしています。初の本格的少女マンガである手塚治虫の『リボンの騎士』は宝塚なしにはありえません。また、その逆に、少女マンガに救われてもいます。客席に空席が見えるようになった74年、池田理代子の『ベルサイユのばら』を舞台化し、大成功を収め、宝塚は息を吹き返します。宝塚は、日本が世界に誇る少女マンガの精神を最も具現化しているのです。

 戦後には、母が「たからじぇんぬ」という雑誌のアルバイトを始めたので、ぼくはアルバイトのアルバイトをした。アルバイトといっても、たとえば久慈あさみと淡路千景の写真に、「清楚さは壁によりてたち、華麗さはソファに花びら区」といった、無内容でカッコウイイだけのキャプションをつけるのだった。それでも、ライバル氏の「宝塚グラフ」のほうの、岩谷時子とはりあっていたものだ。中学で一年上(?)の手塚治虫が阪大の学生で「歌劇」に四コマ漫画を書いていたころである。
(森毅『おお、宝塚』)

 けれども、宝塚はオタクとは無縁です。これほど相性の悪い関係もないでしょう。宝塚のモットーは「清く正しく美しく」です。オタクが好む「カワイイ」や「萌える」ではありません。欲望や快楽の耽溺は、宝塚において、汚らわしく、卑しむべき悪徳です。

 清・正・美はこの世界にとってイデアです。それは宝塚における認識の共通理解や道徳の本質、世界の目的の根拠にほかなりません。宝塚は夢の世界ですから、それを現わす根源が必要です。

 宝塚は民主制ではなく、徹底とした貴族制の社会です。選抜試験に合格後、養成機関に入学すると、歌唱・舞踏・演技を基礎から叩きこまれます。この過程を経て、ようやくステージに上がれても、トップ・スターになるのはほんの一握りです。しかも、入学から退団までの間は、日常生活を含め、厳しい制約が課されています。しかし、宝塚が維持され、ファンに幸福をもたらすためには、プラトンが『国家』で強調したように、エリートとして与えられた役割を果たし、全体のよき調和に専心しなければならないのです。

 宝塚の舞台を支配しているのは男役のトップ・スターです。「清く正しく美しく」の徳を体現しています、舞台上で女役が惹かれ、ファンから支持されるのはたんに甘美で情熱的だからではありません。気品ある徳のためです。徳への愛こそ宝塚における愛にほかなりません。それはまさに徳を備えた哲学者が国家を統治すべきだというプラトンの哲人政治の理想そのものです。その根源的価値を受動的ではなく、高貴で、高位、善きものとして能動的に創出するのです。

 今はどうか知らないが、そのころの宝塚では、つけまつ毛は自分の髪の毛で作ったものである。そのとき、淡路はぼくの毛を三本ぬいた。それがなければ、ぼくはもっと偉い学者になっていただろう。
 (略)宝塚文化の中で少年時代を過ごしたというのは、ぼくに大きな影響を残したように思う。小学校のころに『モンテクリスト伯』を読んだが、それと前後して見た、小夜福子のダンテスに轟夕起子のメルセデスというのが映像化している。シャンソンの「暗い日曜日」も、ジャズの「煙が目にしみる」も、ぼくには戦前の宝塚のメロディである。初音礼子は、スタニスラフスキーやコクランなどの演劇論の本をたくさん持っていたので、借りてみんな読んだ。映画というと、フレッド・アステアにジンジャー・ロジャース、そしてゲーリー・クーパーにグレタ・ガルボだった。
(『おお、宝塚』)

 宝塚ほどジェンダーに向き合っている世界もないでしょう。ジェンダーが告げるのは次のことです。男女の関係は社会的組織の基本的な様相で、男と女のアイデンティティの大部分は文化的要因に規定され。両性の違いは社会的構造によってつくられていると同時に再生産しているという実態です。宝塚は、ジェンダーが概念として生まれる前から、それを承知しています。

 宝塚の世界では男女をめぐる言説に対して一切の転倒が起きません。恐るべきことに、宝塚は現が社会が否定したいジェンダーだけでなく、コンプレックスの問題を軽やかに、明るく、喜劇的に描いて見せます。むしろ、それが徹底的に追及されるのです。男役は現実の男以上に男らしくなければなりません。男役は颯爽とし、高潔で、エレガントに振る舞います。それは一つの気高きデカダンスであって、現実の男には耐える力などないのです。

 宝塚から最も縁遠いのは真理への意志です。

 まずそれは、本場物ではなくて、コピー文化だった。しかしながら、本物志向なんてのは野暮であって、コピー文化のほうがオシャレっぽいといえないだろうか。高級文化にとどかないままで、コピー文化が流通してしまうことが、情報化社会の先どりと言えなくもない。
 少女趣味と宝塚を嫌う人がいるが、それはなによりもユニセックスの世界なのである。男も女も仮りの役がらにすぎない。戦前の、「男は男らしく、女は女らしく」の時代にあって、それは評価されてよい。小学校の高学年あたりで、「男らしい女の子」と「女らしい男の子」がおもしろいと、今でも言われることがあるが、「男らしさ」も「女らしさ」も枠の抑圧であるから、「男は女らしく、女は男らしく」のほうが解放的になる。そのおかげで、上野千鶴子のようなフェミニストとつきあえる。そして、ちょっと知的志向の中流の女の子たちが、宝塚をキーにして社交を進めていた。
 ぼくは、文化というのは、なによりも社交のかたちだと考えている。ぼくが宝塚に学んだのは、その社交だった。
(『おお、宝塚』)

 宝塚はコピー文化であり、それは「マーガリン効果」の典型例です。本場物の代用として出発したけれども、独自に進化を遂げています。コピーに徹することで誰も真似できない独創性を実現しています。本物志向、すなわち真理への意志は想像力の束縛であり、夢の破壊です。この方法論の驚くべき先見性は、いくら賞賛したとしても、不十分です。クエンティン・タランティーノは、宝塚より80年遅いのです。

 イデアを根拠としてすべてが演じられている。スターは夢をそれとして演じ、ファンはその意志を感受するのです。それは成熟した姿勢だと言わねばなりません。反時代性を徹底的に追及することによって、宝塚は比類なき魅力を保ち、新たな価値を創出し続けています。宝塚を正しく評価するには、精神の成熟が不可欠です。それこそが文化への偉大な視線にほかなりません。

 宝塚をわからずして、文化を語ることなかれ。おお、宝塚!
〈了〉
参照文献
大越愛子、『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年
森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年



2010年11月14日日曜日

情報化社会だからこそ要約力を

Seibun Satow
Nov, 14. 2010

「逆に言えば、できない人は、それだけ真剣に野球を考えていないといわれても仕方がないんだよ。真剣に考えたら何らかの糸口はでてくるって。絶対でてくる。出てこないのは、体を動かす量は多くでも、考える量が少ないんだよ。やる量は多いけど、何も考えていないんだな」。
落合博満

ある文章についてのブログ記事やコメントを読むと、執筆者が要約する能力に乏しい場合が少なくない。文章全体を考慮せず、その位置を気に留めないまま、ある部分にのみ拘泥している。揚げ足とりに終始する皮肉屋もいるが、時に、くどくどと詳細に記した挙げ句、本筋と違う方向に議論を持っていこうとする人さえ見受けられる。

そういった意見の記述は二つに大別できる、一つは、全体を把握できないために、自分にとってイメージできる部分にだけ取り組んでいるタイプである。もう一つは、最初から結論があって、そちらに議論を誘導しようとするタイプである。細部に拘り、分量が多い記述には後者の傾向がある。

本人たちはそれで満足しているのかもしれない。けれども、これらは、はっきり言って、不毛である。確かに、社会調査の質問文の作成の祭に、「ステレオタイプ」を避けることが必須とされている。それは、好き=嫌いや善い=悪いなどの強い感情的反応を引き起こしてしまい、その言葉にだけとらわれた回答が現われてくる危険性があるからだ。しかし、すべての文章が社会調査の質問文なわけではない。

それにしても、長い文章ならともかく、400字詰め原稿用紙10枚程度でさえ要約できないというのも奇妙である。ポイントをつかみ、全体を要約した上で、部分を論ずるような態度が身についていないと言わざるを得ない。

実際、要約力は意識的に鍛えないと、習得できない。新聞やネットのニュース記事を読む祭に、要約力は必要とされない。紙面上の各記事は相対的な関係にある。重要なニュースが入ると、相対的にバリューが低いと見なされた記事は短縮される。記事は、そのため、切りやすいように前の方に要点が記され、詳細は後の方で言及される。しかし、すべての文章がこう構成されているわけではない。全体に眼を通して、文章の構成に注意し、ポイントを探して要約する。読解には要約力が必要である。

要約することは頭の中の整理でもある。ある部分にのみ反応して、全体を話題にできなければ、コミュニケーションにならない。コミュニケーション能力の向上には要約力が不可欠だ。

ネット・ユーザーの間でしばしば誤解されているのが、情報社会に反射神経が重要だという点である。これだけ情報が氾濫すると、発信の速さはもはや重要ではない。クロード・シャノンを持ち出すまでもなく、情報量が増えれば。ノイズも増加する。伝言ゲームを思い浮かべればよい。インターネット上の情報は総体的に質が低く、知的営みへの変換効率はよくない。速さへの偏重は不確実さを増すだけであり、それはノイズと同じである。

情報が氾濫している社会だからこそ要約力が不可欠である。ノイズは分析したところで何の情報も与えてくれない。情報を確実に分析・判断するためには、ノイズを取り除く要約力が要る。ノイズが多くては情報を消化しようにも、なかなかできない。要約力の強化は情報の消化力の向上につながる。
〈了〉
参照文献
スポーツ・グラフィック「ナンバー」編、『豪打列伝2』、文春文庫ビジュアル版、1991年